ジャメイカで呼ぶ Party Set はショボいセットと形容されるが1980年代前期の大阪レゲエシー
ンではまさにParty Set がようやくキープできるか、できないか位のレゲエダンスホールの知名
度でそれはレゲエラヴァにとってはとてもアーティカルなものだった。
今時のサウンドBwoyでは全く知らない存在でもある私も当時は稼ぎの大半をつぎこんでいたほ
どキープするのに苦労したレゲエパーティーのプロモートであった。
そんな中で大阪で最大にして最後のパーティーレゲエが北摂はサルで有名な箕面でキープされ
た。 え?「なんで最後やのん?」てか!! その後のレゲエパーティーはParty Reggeやって
ん。Sweee〜〜〜〜〜n!!!
その頃はサーファー流行りで 特にサーファーお奨めのお洒落でキャパの大きな店であった「ピレ
ーネ」が箱。
プロモートしていたのは知ってる人も多いと思うが旅行代理店のアイランド。
この旅行屋が80年代大阪レゲエシーンに残した足跡は大きいと思うが詳しくは後々の話として
このピレーネでキープしたパーティーは今から思えば誠にRich(濃い)なフュ−チャリングで「つか
み」がレゲエ漫才でそれだけでも「濃い〜」と聞こえそうやが、それが全くレゲエが出てこんNSC
第2期生[Love & Peace]というコンビが演った。ネタはお世辞にもエエものではなかったと想う
が、この2人は後に板尾と云う漫才師に、もう1人はSweet Jamaica のCrew になっていった。
「つかみ」 がこんなんで次は当時本格レゲエバンドと呼ばれていた I &
I (アヤナイ)が京都から
。現在でもクラブシーンで活躍してるカーティスフライこと小島クンの妹ミカちゃんがボーカルをして
レゲエパーティーに花を添えた。I & I は、全国的にも営業に出てた京都のレゲエシーンの代表
で私もファンの1人であったのです。因みに大阪ではダントツのRoots Rockers
やったです。
なにせ「レゲエパーティー」だったから、次はいよいよ皿まわし。それで一番手は元祖Nasty
Mouth 「ミラーマン」 この時初めて会った私の印象は「やばい」の一言であったのはミラーマン
が掛けていた「あんま屋の黒メガネ」のせいだったことがこれから半年後にわかったのであるが
なんせ無口な上、回すお皿がまたDubばっかり、このときはまだ例の「皮かむり」はできてなかっ
たと記憶している。「危ないヤッちゃ」と感じつつも私は自分の順番を待っていた。
当時のレゲエパーティーではとにかく私みたいなRub a Dub SoundBwoyはしんどかった。2人くら
いDub まわしが続くと倒れそうになりそうなエグイものだった。ようやく回ってきた順番に私はミナ
ミのレゲエレコード店「ライオン(LION MUZIC DEN)」や「LPコーナー」で見つけた12インチのDee
Jayもんをかけまくった。---これがダンスホールスタイルや---まだしょうもないリリックスしかな
かったがとにかくレゲエはダンスホールスタイルやでと云う気持ちいっぱいに演った。
そしてトリが当時雑誌やテレビにひっぱりだこだった京都の獅子舞ことGold Teat kODO-EJIMAが
またまたDub まわし。-**-**- しかもシンセサイザーのピューンピューンと云う脳ミソにささるよ
うな音とエコーで私はフラフラだった。このKODO-EZIMAは京都いや関西のレゲエシーンの代表
みたいな人で当時あの「フォーカス」にとりあげられた程、全国的なレゲエ者であった。
そんなこんなで無事警察の手入れもなくクリスマスシーズンの箕面の夜はふけたのであった。
とにかく当時のレゲエパーティ-ではこれが本格的なものであったのは間違いなく、これ以後あの
リディムポスィがオ−プンし、ダンスホールの歴史が大阪(関西)で始まったのであった。
- 第ニ話 レゲエパーティ -